愛は確かにそこにあったなと感じる作品。【君と29.5日の月夜を何度でも】(清水春木)の感想・レビュー

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①あらすじ

 「うん、見つけた」——

ある夜の幕張の海。大学生の藤峰海は不思議な少女・美月に出会いそう言われた。

帰る家がないと言う彼女に対し、ひとり暮らしをしていた海は一緒に住むことを提案する。

同じ家で暮らしていく中で距離が縮まっていくふたりだったのだが、出会いから1か月後、美月は突然姿を消してしまう。

そして、海が次に出会ったのは少し大人びた見た目の美月だった——。

29.5日、つまり月の満ち欠けとともに生まれ変わりをしてしまうという美月に、どんな姿の彼女でも愛すると誓う海だったが…。

※Amazonの商品ページより引用しております。

②読んだきっかけ

 『永遠猫の祝福』で泣かされた清水春木先生の最新作で愛について?のボーイミーツガールの新刊が出ると聞いて。

 29.5日の月夜ごとに何か起きるのがわかるタイトル。

 愛の話よりも、29.5日ごとに何が起きるのだろうか?と読む前、否手に取る前から妄想を膨らませていた私。

 そこの答え合わせを楽しみにしつつ、購入いたしました。

③感想・レビュー

 実は帯をあまり読んでなかったのですが、帯に姿かたちがかわるようなことを書いてますので、29.5日周期で姿かたちをかえる美月と過ごす藤峰海の物語です。

 冒頭にあるのですが、恋ではなく愛の物語だという本作品。

 そもそも恋ってなんだろう?愛ってなんだろう?

 と思いながら読み、愛ってそもそもなんだろうなとまず、思うわけです。

 自分が家族と接するときやパートナーと日々過ごすとき。喧嘩もするし嫌なこともありますけども、でも一緒にいると安心感があっていつまでも一緒にいれるような相手に抱く感情。そして、相手のためならば自分が嫌われると思ってもなんでもできたりいえてしまったりすること。この感情に名前をつけるとすれば愛だろうなというのが私の愛に対する考え方です。

 そこで思うわけです。

 相手がどんな姿になっても好きでいること。

 これが愛といえるのか?ですよね。

 確かに、相手を愛するということは「どんな姿になろうが構わない」というのは物凄くわかりやすいなと思います。

 しかし、作中で相手がどんな姿になっても見守って一緒にいるという主人公の海は、そのせいで代償を支払うことになります。

 その代償は作中のネタバレになりそうなのでここでは詳しく書かないですが、愛のためなら何でもできると聞こえは良いものの、本当にこれが愛なのか?というと、見方によれば堕落やただの自己満足の自己犠牲ともとれるわけです。

 確かに、それも愛といえば愛かもしれませんが、盲目的に恋に落ちているとも言えなくもないこの状況、本当に作者が伝えたい、愛なのだろうか?と。

 しかもそれを愛だというのであれば、本作品はどこにでもありそうな恋愛小説じゃないか?(今まで読んだ清水先生の作品にしてはわかりやすすぎな上に、普通過ぎないか?でも、レーベルの特徴がわからないのですが、そういうレーベルなのかもしれないし…)となりそうなだなと感じるのが主人公海の美月に対する行動を主体に考えたときの私の考えです。

 しかし、ヒロインの美月視点で本作品を考えてみると、そうではなく、こちらのほうが主人公に対する姿勢は私の思うような愛なのかもしれないと思えることが多々あるなと感じる内容だなと思いました。

 美月視点で本作品を考えると、本作品は見返りを求めずにずっと見守っていること、そして主人公が社会で生きていくためならば自分はどうなってもよいと思っている節すら感じる行動が多いなと思ったので。

 私は、本作品はどんな姿でも君を愛する物語ではなく、愛は姿形を変えてもいつも主人公(君)のそばにあった物語なのではないかと読後は感じた作品でした。

 そして、主人公の海はヒロインの美月を通じて本当の愛を知る物語なのだろうなと思いました。

④こんな方にオススメ

・愛とはなんだろうかと考えながら作品を読みたい人

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